
門前払い
ボキャビルの実際の手順に入る前に、私自身のボキャビル体験をお話しておきましょう。私の実際のボキャビルはこれから解説する方法の原型といえるものでした。原型ならではの強引さが目立ち、そのまま皆さんにお薦めできる方法ではありませんが、私の英語学習史のなかで数少ないはっきりとしたブレイク・スルーの体験であり、ボキャビルの大きな効果が例証にもなると思います。
当時私は23歳で、音読トレーニングなどを中心に英語のトレーニングが軌道に乗ってから1年半程経っていました。ただ語彙に関しては大学受験時代に覚えた4000〜5000の単語数でストップしていました。かねてよりお気に入りの英語圏の作家を原書で読みたいと思っていた私ですが、ページをめくっても語彙不足で読書を楽しむと言うわけには行きませんでした。
言語学者によると、英語に書かれた物はどんなものであれ、最初の5000語程度で使用されている全単語の95パーセントをカバーするそうです。確かにそれは統計的な事実なのですが、実感としては95パーセントをカバーしてくれるはずのその語彙力ではさっぱり読めないのです。ペーパーバックをベッドに寝転んで楽しみたいという私の夢はいつになっても果たされそうもありませんでした。とにかく単語不足で門前払いという感じでした。

500ページの単語集でスタート
23歳の夏の終わり、私は一挙に語彙を増やすべくボキャビルに取り組むことを決意しました。当時学習心理学の本などを読み、能率的な記憶の仕方などを知り染めた私は、学んだ理論を実践に移すことにしたのです。選んだテキストは14,000語弱を収録した、単語集というより小型の辞書と言ったていのテキストでした。
500ページを越すその単語集の1ページ目を開いたのは9月の初旬のことでした。私はその学習理論に従い、単語の意味をしゃにむに暗記しようとは考えず、しっかりと単語を発音しながら意味内容をイメージ化していきました。resentful「憤慨している」という単語の時はぷんぷんと怒っている人をbawl「どなる、わめく」はわけのわからないことをわめき散らしている酔っ払いを頭の中で映像化するのです。
日本語は一切口にしません。Bawlの訳が「どなる」と「わめく」の2つついていますが英単語そのものは一つなのです。辞書の編者によって訳語などさまざまになるだろうし、私にとってはbawlを見たり、聞いたりした時、感情に捕らわれ大きな声を出すことだと言うことが認識できればよいのですから。
私が使用した単語集は現在主流の頻度順の編集ではなくアルファベット順でした。しかし一般的な語頭ではなく、語末の文字による配列の「逆引き辞典」というものでした。したがって、隣接する単語が、lapse,elapse,relapse,eclipse,glimpse
というように韻を踏むことになります。これは声を出す上で非常に心地よいものでした。

繰り返しの威力
単語を発音しながら映像化する作業を繰り返し、テキスト全体を一回終えたのは9月の終わりでした。直ちに2回目にとりかかりました。ところが一回丁寧に影像を結んだはずでしたが、意味はさっぱり浮かんで来ませんでした。意味がわかるのは元々知っていた単語だけです。ほとんどの人が単語(だけに限りませんが)の学習に挫折するのはこの段階でしょう。一回暗記を試みて、しばらくしてその単語を忘れていると「自分は記憶力が備わっていないんだ」と諦めてしまうのです。
私はまったくショックを受けませんでした。なぜなら件の学習理論のおかげで、一回で覚えることなどないと知っていたからです。一回目は記憶の土壌を作る作業に過ぎないのです。意味がぱっとわからないにしろ、効果の兆しはすでに見えていました。語義を見れば,「ああ、そうだった、そうだった」と大半の単語について思い出すことができたからです。一回目に丁寧な作業をしていたから、影像を結び直すのも時間がかかりません。スピードが確実にアップしていました。一回目の作業には3週間程度を要しましたが、2回目を終えるのには10日程しかかかりませんでした。所要時間が半分になったわけです。
気をよくした私は3回目に取りかかりました。スピードはさらに増してきました。そのうえ、3回目になると意味がぱっと浮かんでくる単語がぽつぽつながら現れてきたのです。そんな時はそうした単語たちに「おまえたち、いいやつらだなあ」と呼びかけたい思いでした。3回目の作業は5〜6日しかかからなかったと思います。
4回,5回と回を重ねるにつれスピードがどんどんアップしていくとともに、思い出せる単語の数がぐんぐん増えてきました。この段階になると単語の意味が浮上してくることが面白く作業自体が一種のゲームのような感覚になってきました。脳がスピードと素早い知覚に快感を得て、「もっとやって、もっとやって」とねだっているようなのです。
10回目を越したあたりでは、単語集のほぼすべての単語が瞬間的に認識できるようになっていました。ただ休息に得た知識は忘れ去るのも速いですから、私は覚えきった後も熟成のためにしばらくその単語集を回し続けました。当時横浜に住んでいた私は渋谷で深夜のアルバイトをしていたのですが、その行き帰りのこの電車の中でテキスト全体のこの「熟成回し」が行えるようになっていました。トレーニングの開始時には一回終えるのに3週間要したことを考えるとすさまじいスピードアップです。

英語の本が読める!
もうどのページを開いても、単語の意味がぱっと浮かび、記憶が完全に定着したと実感して、私はこの単語集によるボキャビルトレーニングを打ち上げました。11月の下旬のことでした。秋のはじまりにトレーニングを開始し、秋の終わりに終了したのです。短い期間でしたが、気持も乗っていて、トレーニングが佳境に入った頃には一心不乱という感じでした。
単語集を終えた時は充実感に一瞬包まれましたが、ボキャビルに入る直前にあきらめた本を再び手にした瞬間は、期待と不安が交錯しました。単に単語を覚えたというだけで、ほんの2〜3ヶ月前に歯が立たなかった本が読めるようになっているのかという疑念が頭をよぎったのです。英語に関してそれまで何度か経験した肩透かし、徒労感をまた味わうのではないか。もしそうだったら今度の精神的ダメージは甚大だぞ。その本はアメリカのSF作家レイ・ブラッドベリの短編集でしたが、不安を払拭しようと、私はままよとばかりにページを開きました。
風景がまったく変わっていました。以前は霧の中に取り残された感じだったのが、いまや英文の内容がスムーズに入ってくるのです。興奮しながら私はページをめくっていきました。しばらくするうちに、私はストーリーのなかに没入しており、純粋に読書を楽しんでいました。その日は寝るまで夢中でその短編集を読みふけっていました。
ボキャビルの効果は絶大でした。しかし、ボキャビルの効果を支える下地をすでに私がもっていたことも事実です。安定した文法・構文の知識、基礎語彙、大学受験期に培った遅くても正確な読解力。そして、英語学習者用に基本英単語だけを使って書き直された本を速読することによって、英文の流れに乗る体質も身につけていました。英語の本を読むために私に欠けていたのは語彙だけで、だからこそボキャビルがこれほど劇的な効果を上げたのだといえます。
ボキャビルによって英文読書に開眼した私は、次から次へとペーパーバックを読み飛ばしていきました。ブラッドベリの短編集を数日で読み終えると、次はサマーセット・モーム。モームはお気に入りの作家のひとりで、このときに長編・短編集あわせ彼の小説のほとんどを読んでしまいました。その後も単語不足で読めなかった飢えを満たすがごとく、夢中でペーパーバックを読んだものです。アルバイト代は、ほぼ100パーセント洋書購入で消えていきました。23歳の11月の末から翌年の夏くらいまでに、硬軟取り混ぜ40冊から50冊を読破したと記憶しています。
この多読のおかげで、覚えたと言っても語義だけを記憶したにすぎなかった単語が、実際の英文の中で認識することによって、実感、色合いを伴って定着していきました。ボキャビルは単語集で覚えるだけではだめで、実際に会話や読書の中で使うことによって辞書的な意味だけでなく、使われ方、ニュアンスなど単語のいわば個性がわかってきます。多読はこうした単語に対する実感作りにもっとも効力を発します。

私のボキャビルの特異点
私のボキャビル体験は、私個人にとっては大成功で英語学習上の数少ないブレイクスルーをもたらしてくれたのですが、かなりの荒療治で一般的な学習者にそのまま適応できる方法ではありません。
私は手持ちの単語が5,000語弱で13,000語以上収録の単語集を一秋でマスターしたのですが、これは3ヶ月弱で8,000語以上を記憶してしまったということになります。これはいくつかの条件が満たされてはじめて可能なことです。ひとつひとつ指摘してみましょう。
まず、23歳という若さがあったこと。次に暇だったということ。当時の私は大学に籍を置きながらほとんど学校に通わず好き勝手なことをしているという、オブローモフ的生活を送っていました。厳しい実社会に身を置かれているビジネス・マン、ビジネス・ウーマンや家庭を切り盛りし、その上パートに出ている主婦の方などからすれば腹が立つほどにお気楽なご身分でした。
次に高いモチベーションがあったこと。私は大好きな英語作家たちの本が読みたくて読みたくて仕方が無かったのです。翻訳はどれほど上手に訳していても翻訳に過ぎません。絶対に彼等の本をオリジナルで読まずには済まさない。なにがなんでも済まさない。私には燃えたぎるような願望がありました。
そして、ボキャビルの効果を最大限に発揮できる下地があったこと。私はすでにしっかりした構文・文法の基礎と基礎語彙を保有していました。その上、単語数を制限した本ではありましたが、数十冊の英語の本をすでに読んでいて、受験用の、わずかな分量の英語を舐めるように読んでいく英文解釈的読解を脱して、大量の英文の流れに乗っていく体質ができていたのです。
最後に個人的な体質。私は物事を少しずつこつこつとこなしていく長距離ランナー・タイプではなく、目標を決めると或る期間それに向けて徹底的にエネルギーを注ぐ完全なスプリンター・タイプです。この体質は急激なボキャビルなどには最適だったのです。
現在私が一般の学習者に薦めるボキャビルトレーニングでは、単語をレベル別に、1,000語ずつに身につけていきます。また、一冊の単語集を一気に回す方法ではなく、いくつかの部分=セグメントに分割して、セグメントごとにサイクル回しで完成します。また、私のように一気に数千の単語をマスターするケースは稀で、数年かけて語彙力をつけていくのが一般的です。