英語のテスト、特にTOEICについて

客観的尺度としてのテストの意義

英語が身についたかどうかは自分の実感が決めるものです。最終的には自らの英語力に対する自分の満足感がすべてです。櫛の歯引くごとく現れる各種英語関連テストに対する私の態度はかなり冷めたものです。と、同時に私は英語を学習する人に信頼に足りうるテストを受けることをお薦めします。

私のアドバイスは矛盾したように聞こえるかもしれませんが、それなりに筋の通ったものだと考えています。確かに英語の上達は、最終的には学習者自らの実感が判断するのですが、この実感というのが、個人差が甚だしい代物だからです。

まず、望みが高すぎる人種がいます。私などは、典型的にこのグループに属します。本格的に、英語学習を始めた時、わたしはネイティブ・レベルに達することを目標にしました。母国語である日本語とほぼ同程度に英語が使いこなせるようになるものと考えていたのです。cry for the moon というやつですね。そんなレベルを目指していましたから、いくら学習・トレーニングを積んでも不全感を感じるだけで、フラストレーションが溜まるだけでした。「なんだよ、英語ひとつモノにならねーじゃないか。俺って、こんなに無能な人間だったのか?」と自己否定的な気分になっていた時に、TOEFLを受験する機会を得ました。英語学習を始めて数年を経た時でした。返って来た結果は600を越えたスコア。610か20でした。客観的に見れば、かなり高度な英語力だということはわかりました。学習を開始した時点で受験していれば、おそらく400点ちょっとしか取れなかったでしょう。

私の英語力は大きく伸びていたのです。TOEIC換算で400台から900台に匹敵する伸び幅でしょう。しかし、自分の英語力がネイティブ・スピーカーと比べれば児戯に等しいことを痛感していた私は、上達した実感が持てなかったのです。幸運だったのは、私が生来脳天気な性格の持ち主だったことです。進歩が実感できなくても、それほど鬱々とした気分にはなりませんでした。「ま、いいかー。ペーパーバック読むのは楽しいし、天気もいいことだし、きょうも英語やっかー。」と言う具合に英語の学習を続けていたからです。しかし、真面目で繊細な人なら、上達が実感できないことでモチベーションを失い、途中で英語の学習を放擲していたかもしれません。

こういう際に、テストで自分の英語力に客観的な物差しを当てることが非常に役立ちます。

例え、目標水準を高く設定している自分の満足感が得られなくても、テストのスコアが進歩を示してくれるからです。旅の目的地がいかに遠くても、道標が10キロ、100キロと歩いた距離を示してくれるように。

一方で、自己評価が極端に甘い人達がいます。会社からTOEIC600以上のスコアを義務付けられて、私のもとを訪れたある30歳台の男性は、このタイプの典型でした。彼によると、英語力には自信があるのに、TOEICでは何回受けても400点台しか取れないということでした。通っている英会話学校ではスムーズに会話をしているし、頻繁に行く海外出張の際にも、仕事でもオフでも困らないというのです。

ためしに英語で話してみると、案の定、すさまじい自己流英語です。構文は破綻しているし、単語もかなり勝手な使い方をします。言っていることを理解するのにこちらはうんと推測をしなければなりません。英会話学校ではお客さんですし、妙な英語を話しても生徒が複数いるクラスでいちいち直していてはレッスンが進みませんから調子を合わせているのでしょう。海外出張の件も、仕事の英語というのは、目的がはっきりしていますから通じやすいものですし、オフの買い物などで使う英語は単純なものだし、店員が買い物客に品物を売るためになんとかコミュニケーションを図ろうとするのは当然です。彼は困らないのかもしれませんが、周りが大いに困っているのは確実でした。

私は彼に、基本構文、文法などをやり直すことを勧めました。彼は気乗りしないようでしたが、TOEICのスコアが、脆弱な英語力を冷然と突きつけていますからしぶしぶと学習を始めました。しかし、もともと大学受験までの基礎もあり、中学テキストの音読パッケージ短文暗唱=瞬間英作文をしばらく続けたところ、ほどなく目標の600点を突破し、同時に構文・文法なども安定してシュール・レアリスティックな英語からも脱皮しました。

このように、基本がぐらついていながら自分では気づかない時にTOEICを始めとする英語テストを受験してみることは、なんとなく通じている英語を見直し、弱点を補強し、学習の軌道修正をする機会にもなります。

TOEIC

各種ある英語テストの中で、英語力を測る精度と使い勝手の良さで、私はTOEICをお薦めします。それは、次のような理由からです。

基礎レベルの完成までの英語力を測る物差しとして優れている

TOEICは、非常に合理的に作られたテストで実に正確に学習者の英語のレベルを判定してくれます。「TOEICなんぞで英語力がわかるか」と異論を唱える向きもありますが、一定のレベルまでの英語力を測るための物差しとしては最も信頼に足り、利用しやすいテストだと思います。TOEIC懐疑論者がよく言うのが、「ファックスメッセージや広告文のような皮相で簡単な英語ばかりで、骨格のしっかりした、品格ある英語が学べないではないか」といった類のことです。これは、視点がずれています。TOEICは学習の対象や目的ではなく、物差しに過ぎないのですから。私自身、TOEICの問題内容そのものが、「学習者がすべからくモデルとするべき珠玉の英語を集めたもので、鑑賞、研究に値し、教材として活用するもの」などとは考えていません。

実際私は、TOEIC,TOEFLをはじめとして、英語テストのための特別の勉強をしたことは一度も無いし、生徒を指導する上でもそういうことはしません。受験が近づいたら、チューンナップのために自宅で模擬試験を一回くらいやることを勧めるだけです。物差しに作品的高級さを求める人はいないでしょう。寸法さえきちんと測れればいいのですから。

しかし、物差しとしては、TOEICはかなり信頼に足るものです。まず、一定の教育を受けたネイティブ・スピーカーが受けると必ず900台半ば以降の高得点がでます。大学受験の問題などにはネイティブ・スピーカーが首をひねるものが散見されます。これは、日本で発達した受験英語があまりに高踏的で、教養劣るネイティブ・スピーカーには手に終えないいほどの高みに達したということではないでしょう。本来の生きた英語を離れ、いびつな定向進化を遂げてしまったのか、単に出題者がヘボなだけです。TOEICは大量の、易しい英語を迅速に処理するという問題形式ですから、確かにレベルの高い英語を求める人には物足りないでしょうが、英語の使用能力を測るには有効な形式だと思います。

また、TOEICは対策がほとんど効かず、英語力が変らない限り、ほぼ同程度のスコアしかでません。私のもとに相談に来る人たちの中にも、さまざまなTOEIC対策本や、専門校の「TOEICスコアップ短期コース」のようなものを試した人がかなりいますが、ほとんど効果はないようです。効果があるのはTOEICの試験形式や問題に対する基本的な対処法を初めて知る初期の間だけで、その後は英語力を底上げしない限りスコアはピタリと止まってしまいます。こうした冷厳さが、翻って尺度としての信頼性になるのだと思います。

もう一つは、TOEICを作成しているETSが、統計・数学的技術を駆使して、どの回を受験しても、スコアに不公平がないように配慮していることです。この点、日本国内の代表的英語テストの英検では、年々試験形式・難度が変り、例えば、同じ一級合格者でも、英検誕生期と現在では合格に求められるレベルがまったく異なっています。それなのに、英検一級ということでは、同じ資格で、しかも、一回受かってしまえば、その後英語力が落ちたとしても英検一級合格の資格は一生有効です。実用的英語力の尺度が欲しい実業界などが、その役目を一元的にTOEICに担わせつつある趨勢もある程度理解できます。

このような理由から、当サイトでは、英語のレベルを表すためにTOEIC何点レベルという表現を頻用します。これは、単にものごとを客観化・明確化するためで、TOEICを目的化・神格化するつもりは毛頭ありません。英語力を上級やら中級やらと表現するよりはるかにあてになるからに過ぎません。気温を表すのに、「暑い、寒い」という主観に頼るより、「摂氏~度」と言ったほうが正確であるのと同じことです。

英語の達人を自称するTOEIC懐疑論者の中に、色々理由をつけてTOEICを受験することを避ける方々がいます。これは理解し難い姿勢です。TOEIC批判をするのなら実際に受験して高得点をあげてから、「このテストはたいしたこと無いよ」と、のたまえばいいのです。TOEICはその性質上、テストに対する好悪に関わらず、高い英語力を持つ人が受ければ必ず900点台半ば以上の高得点が出るようにできています。ところが、英語マスターを自称しながら、浮気の最中に奥さんと出会うのを恐れるごとく、TOEIC受験を忌避しまくる手合いがいます。

英語を学習する人で指導者を選ぶことに迷っている人は、指導者候補にTOEICのスコアを尋ねるか、未受験の場合は受験を要求することをお薦めします。一回2時間程度しかかからないテストですし、年に7~8回も実施しているのですから、多忙すぎて受験が叶わないという言い訳は通用しません。本当の達人なら、なんの準備もせずに、鼻毛を抜きながらポンと最低950点以上のスコアを出すはずです。その上で、「こういうところに英語学習の最終目的地点があるのではないよ。」とでもいうはずです。それを避けるようなら、その人の英語力は眉唾ものだということです。

何年か前、NHKラジオの「やさしいビジネス英語」の元講師杉田敏氏が、番組テキストの中で自らのTOEIC受験を語り、淡々と、ケアレスミスで満点を後一歩のところで取り損ねたことを語られていました。NHK講師という地位を考えれば、こうしたテストを受けるリスクは相当なものだと思いますが、本当の達人というものは、物事に対して潔く、恬淡としているものです。自らを神格化・神秘化することに汲々としている似非達人とは違うなと、氏に対する尊敬を新たにしたものです。ちなみに、杉田氏もTOEICは非常によくできたテストだと評しておられました。

測定範囲が広く、目盛りが細かく学習者向き

TOEICは、英語力を5点刻みのスコアで表しますが、おかげで自分のその時点での英語力が非常に把握しやすくなります。多くの英語検定は合否を出す形式なので、英語力のこまかな判定が困難です。また、スコア算出という形式ゆえに、繊細な性格の学習者も合否式テストで不合格になった場合の「サクラチル」的挫折感を味合わなくてもすみます。

TOEICのこの形式は、ETSが作成する兄貴格のTOEFLも同様です。しかし、TOEFLは、北米など英語圏において、大学の学部・大学院で勉強できるか否かを判定する目的で作られたため、主に比較的高い英語力を持つ層を受験者として想定しています。そのため、TOEFLのスコアが正確なのは主に500点以上の範囲で、400点台以下のスコアは有為なものではないということです。TOEFL500点はTOEICで600点くらいにあたり、一般的日本人の場合、英語力が最も高まる大学受験期でさえ、大多数はこのレベルには達しません。つまり、TOEFLは日本人の大半を占める中級以下の学習者の英語力を測定するには不向きなのです。

その点、TOEICは日本人向けにデザインされたテストなので、初級から上級までの広い範囲を5点刻みで正確に測定してくれます。TOEICの出現は、自分の英語力の正確な尺度を求める日本人学習者にとり、まさに福音だったといえます。

また、990点満点のため英語力の伸びがイメージしやすくなっています。TOEFLのばあい670点あたりが満点とされていたため、小さな伸びがわかりにくいのです。例えば、TOEFL550点と600点は、50点の差しかありませんが、実際には英語力に大きな開きがあります。TOIEC換算で、700点くらいと900点くらいの差が存在します。これは、中級レベルの学習者と外国語としての学習の、一応のゴールに達した人の力量差に匹敵します。最近のコンピュータ化されたTOEFLは300点満点ですから、目盛りはさらに粗くなってしまいました。

頻繁に実施されて、受験しやすい

TOEICは現在年間7~8回の定期公開テストが実施され、手続きも簡素で、非常に受験しやすいテストです。年に一回しか受験できない大学入試や国家試験と違い本当に気軽に受けられるテストです。定期的に受け、学習のペースメーカーにするにはうってつけです。

テストを目的とした勉強をしない

英語の上達の尺度としてTOEICをはじめてとするテストを定期的に受けることは勧めますが、テストを学習そのものの目的にするべきではありません。私自身はTOEICやTOEFL用の勉強を全くしたことがありません。TOEICの受験前にテスト形式になれるために、市販の模擬試験を一度やっただけです。

英語の学習と称してひたすらテスト問題集を解いている人がいますが、本当に英語力をつけたければ、すぐさま学習スタイルを変えるべきです。こうした学習スタイルの背景には次のような誤解があるのでしょう。「TOEICは英語力の証明である→だからTOEIC教材で能率的に勉強する→TOEICのスコアアップ=英語力アップ」ところが、実際にはまずこういう絵図通りにことは運ばないのです。英語力というのは大量の英語を処理する過程ではじめて培われるものです。問題集をかりかりと声も出さずに解くだけでは、例え何冊仕上げようと骨格のしっかりした英語力が養われるはずもないし、受験するテストがよくできたものなら、スコアも上がらず、合格もしないはずです。

数ある英語検定の中でも、TOEICはこの点に関して非常に良くデザインされていて、いわゆる「傾向と対策」的対処法ではスコアが上がらないのです。出版はビジネスですからTOEICの名を冠して、「短期で大幅スコアアップ」というような売り文句で続々と本を出します。

そして、それを使う学習者も多いものです。しかし、そうした人のうちの多くは、そんな教材は投げ捨て、むしろ中学校の英語テキストを音読すべきなのです。そして、その方が英語力を底上げし、TOEICのスコアも確実に上がるものなのです。

私の主宰する教室では、TOEICのスコアを上げることを当面の目標にする人に対しても、ほとんどTOEIC用の教材は用いません。これを最初怪訝に思う人もいます。それに対しては、「英語力が上がれば自然とスコアも上がりますから、英語力をつける学習・トレーニングをしましょう。」と答えるだけです。続けていれば必ず英語力が向上し、当然ながらTOEICのスコアも上がって行くので、徐々に理解してくれます。もちろん、早々に教室を去る人たちもいますが、それに対しては「縁無き衆生は度し難し」と言わざるをえません。

英語力そのものを上げずにTOEICスコアを上げる方法はないと思います。少なくとも私は知らないし、今後もそうした方法を研究することはないでしょう。仮にそうした方法があったとしても、なんになるのでしょうか?伸ばしたいのは英語力なのではないでしょうか?「いや、会社にスコアを上げるように言われただけなんだ」という人もあるかもしれませんが、あるスコアを取ればそれに相応しい英語力を求められるのは自明のことでしょう。

英語は一つの言葉です。我々は言葉を通じて、他の人と友人になり、愛を囁き、議論します。言葉を通じて、新聞・雑誌・インターネットなどで時々刻々変る世界についての情報を得ます。本を開けば、言葉を通じて、いながらにして物語の世界に遊ぶことができます。このような豊かな世界が、薄っぺらな問題集の中に閉じ込められるはずは無いと思いませんか?

TOEICの限界

TOEICは、テストとして非常によくできていますが、テストというものの限界から自由ではありません。そのことを頭に入れておくと、より客観的に、有効にTOEICを使うことができます。ここでは、2点を挙げておきます。

英語を話す力を直接測れない

TOEICはリスニングセクションとリーディングセクションで成り立つテストですから、直接受験者の英語を話す能力を測ることができません。その背景にあるのは、英語力はある側面だけが、突出することは通常無いので、リスニング力、リーディング力を測れば、スピーキングの能力も間接的に測ることができるという考えで、これはかなりの程度真実です。しかし、あくまでも間接測定ですので、実際には、TOEICの高得点者であるにもかかわらず、会話力は必ずしも高くない人がいます。

実際のところ、TOEICが最も正確に測定するのは、英語の「基底能力」なのです。基底能力とは当サイトで頻用する用語ですが、英語を駆使するための土台となる力のことです。一般によく使われる「基礎力」や「基礎知識」などとは違います。例えば、中学高校である程度しっかりと英語を勉強して来た学生は英語の「基礎知識」がありますし、辞書を引きながら、ゆっくりながら英字新聞などを正確に読める人の「基礎力」はかなり高いと言えるでしょう。しかし、これらの段階では、「基底能力」が高いとは言えないのです。「基底能力」とは単に知識にとどまらず、英語を瞬間的に処理できる能力で、後はわずかな刺激を与えるだけで英語の駆使能力に転換できる力のことです。「基底能力」は、英語を聴いて理解することや、英語を日本語に直すことなく、英語の語順のままでかつ迅速に読む、いわゆる「速読力」に直接反映されます。

「基底能力」が高い人の中で、表れ方が唯一ばらつきがちなのがスピーキング能力です。日本にいながら、学習・訓練で英語の「基底能力」を高めることに成功する人は例外なく大量のインップットを行います。その過程でアウトプットが極端に少なくなるケースがあり、その場合、「基底能力」が高いにもかかわらず、スピーキング力が伴わないということも起こり得ます。(「基底能力」を高めれば、日本を一歩も出なくても高度なスピーキング力・会話能力を身につける方法はいくらでもありますが、詳しくは英語レーニング法に譲ります。)

つまり、TOEIC高得点=高い英語の駆使能力という公式は必ずしも成り立ちませんが、逆に、高い英語の駆使能力=TOEICの高得点という公式は成り立ちます。例えば、プロの同時通訳で普通のコンディションでTOEICを受験して、900点半ば以降のスコアが取れない人はまずいないでしょう。

*高い英語力を求める学習者は迷わず、「基底能力」を高めることを重視して下さい。「基底能力」がさほど高くない(TOEIC400~600程度)にも関わらず、その稼働率が高くコミュニケーション能力にも優れ、かなりスムーズに英語のやりとりができる人たちがいます。一方で、TOEICで900近いスコアを上げ、英語の読書などを楽しみながら、アウトプットをほとんどやらず会話は苦手という人もいます。しかし、同期間の英語圏での生活、同程度の英語への接触を仮定すると、その後では、スピーキング力も、流暢さ、有効性、品格等すべての点で「基底能力」の高い後者のグループが凌駕しているでしょう。後者のグループの、眠っていた高い「基底能力」は急速に顕在化し、高い「駆使能力」に変っていくのに対し、前者の「基底能力」はすでに稼動され切っていて伸びしろは無いからです。後者が英語の駆使能力を高めるには、構文・文法の学習、語彙の増強、読書などのインプットをする必要がありますが、残念ながら、このグループの人たちは、会話などアウトプットは好きなのですが、読書などの地味なインプットを厭う傾向があり、低いレベルで英語力が伸び止まることが多いものです。

非常に高い英語力の測定ができない

TOEICは英語力をかなり正確に測定してくれるテストですが、測定できる範囲には限界があります。高いレベルの英語力に対する測定精度が落ち、ある地点から先の英語力は全く測れなくなります。

TOEICは大量の簡単な英語を短時間で処理する能力で英語力を測る形式のテストです。しかし、一定以上の英語力を有する人にとって、実は「大量」でも「短時間」でもないのです。たやすく900台半ば以降のスコアを上げる人は、たいていかなり(20~30分程度)テストの持ち時間が余るのです。そうすると、もともと問題は簡単ですから、このレベルの人の間で差がつくのは、テストに対するモチベーション、集中力の有無という性格的・気質的なもの、文法・語法の微細な部分に関する知識の差、というような本質的な英語力以外の要因によることが多いのです。

ある調査によると、複数の大学卒のネイティブ・スピーカーにTOEICを受験させたところ得点分布は930~960点だったそうです。しかし、ネイティブ・スピーカーが今さらTOEICのようなテストを受けることに高いモチベーションを持つとは思えません。気乗りもせずに受けて気がそぞろになり、いくつかのケアレス・ミスを犯したというのがこの結果を生んだのだと考えられます。ですから、960点以上のスコアを上げた日本人学習者がこの調査に参加したネイティブ・スピーカーより高い英語力を持つという結論には結びつきません。私自身は、'97年に受験したTOEICでは、985点という満点に一目盛足りないスコアでしたが、ネイティブ・スピーカーを凌駕する英語力を持っているなどとは口が裂けても言えません。

また、TOEICのスコアは990点という上限があるため、高い英語力を持つ学習者間の力量差を示すこともできません。例えば、先に挙げた杉田敏氏の受験体験です。氏はケアレス・ミスで満点を取り損ねたと告白されていますから、そのスコアは985点だったと察せられます。つまりスコア上は私と同じということです。しかし、氏の英語力と私のそれが同レベルなどということは考えられません。「やさしいビジネス英語」の番組中に氏が、ネイティブ・スピーカーと即興で交わされる英語の会話を何度も聞いたことがあります。氏の英語力はあらゆる側面で現在の私が逆立ちしても真似できない高度なものでした。このようにTOEICの高得点域では、甚だしい実力差がありながら、スコア上は同列になってしまうということが起こり得ます。TOEICの測定できる上限は限りがあるため、ネイティブ・スピーカー、ノン・ネイティブの達人、それ以前の学習者の力量差を表すことができないのです。

900過ぎ位まではTOEICの英語力(厳密には基底能力)の測定精度は十分に信頼に足り得るものですから、そのレベル以前の学習者は物差しとして大いに活用すべきです。ただ、900点台の半ば近くになった時点では、それ以降の英語力の伸びに対する尺度をTOEICに求めないことです。英語の達人を目指して情熱を燃やす高レベルの学習者の中には、TOEICの満点近くに達人レベルに達する臨界点があると考えている人もあるようですが、求めるものはそこにはありません。永らく学習期における道しるべになってくれたTOEICに別れを告げ、新たなそして究極の尺度を使う時です。このレベルに達した学習者の、次の、そして最後の尺度は、自分の満足感、実感にほかならないと思います。